僕が僕であること(仮)

ジードとルーブが大好きな4歳の息子とのウルトラ備忘録です。

「息子のこと、叱りすぎたかも…」反省しながら過ごした日

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 4歳になったばかりの息子。

 最近は男の子らしい生意気さにも磨きがかかり、溢れんばかりのエネルギーを放出するように元気いっぱいの毎日です。すくすく元気に育ってくれて、父親としてこれ以上言うことはないのですが、育児に関しては少し悩むところもあり。

 息子は、自分のしなければならないことにきちんと「理由」を求めてくるようになりました。例えば、リビングがおもちゃで散らかっているとき。「お片付けしなさい!」と僕が言うと、これまでは黙ってそれに従うだけだったのが、今は「なんで今片付けるんよ?」と疑問が最初にやってくる。自分の頭で考えることが出来るようになってきました。僕に気持ち的な余裕が無いとき、正直その様子を生意気に感じてしまうこともあるのですが、息子にとってはこれってもの凄い成長なのだと思います。「人間」になってきたという感じがします。

 

きなこころで

 やっぱり人間、色々な部分で余裕を持っていないといけません。

 昨日のことです。いつものようにおもちゃを部屋いっぱいに広げて遊ぶ息子。もう寝る時間だからと僕がお片付けを何度か催促すると、「もうー!」といきなり怒って持っていた人形を床に叩きつけました。これは良くない。僕もついカッとなり、大声で叱り飛ばしました。

「おもちゃ大事にできへん子にはもう何も買わへんで!これもポイするからな!」

 僕も物に当たってしまいそうになること、あります。大人になってもたまにあります。でも、物に当たってしまった後のあのいやーな気持ち。自分という存在が虚しく感じられてしまうあの何とも言えない胸のモヤモヤ。そしてそれを周りに振りまくことのみじめさを知っています。普段、僕は息子に対して極力怒鳴ったりはしないようにしているつもりですが、このときばかりは彼の行為を見過ごすことが出来ませんでした。

 息子は、僕に怯えているようでした。自分が叱られたことへの反省ではなく、目の前にいる怒った大人にただただ怯えている。その様子を見てやっと、僕も我に返りました。

えは多分見つからない

 あとで嫁さんに話をしてみると、「パパと一緒にお片付けしたかったんちゃう?」という答え。恥ずかしながら、なるほどと思いました。僕がお片付けを催促したことと、息子がおもちゃを床に叩きつけたことがここでようやく結びつきました。息子は、自分の感情の行き場が分からなくなっていたようです。

 思えば、僕は息子に対して「~しなさい」と命令するだけで、やって見せるということをあまりしていませんでした。言葉が通じるようになってから、ますますその傾向が強まっていたかもしれません。何にでも「理由」を求めたがる今の息子にとって、僕の言い方はただただストレスになっていたようです。

 育児に関しては、こうして反省→実践→また反省を延々と繰り返していくしかないのかなと思います。これと言う答えのないことですし、世間で一般的に言われている教育の基本のようなものが僕の息子にも当てはまるかどうかは、実際にやってみるまで分からないことですから。

 第一、僕は育児をどうのこうのと語れるほどの知識も経験も持ち合わせていません。自分の子どもが悪いことをしたから叱る。これは父親として当たり前のことだと思うのですが、どこか罪悪感を感じてしまうのは、自分の中に理想の育児像というものがあるからなのでしょうか。考えれば考えるほど、探している答えから遠ざかっていくような気がしています。

 ただひとつだけ、これだけは意識しておかなければと感じたこと。保育園からの帰り道。その日にあった色んな出来事を息子は話してくれます。そこで僕はふと、「こうして日々のこと、思ったこと感じたことを自分から話してくれるのはいつまでだろう」と考えてしまうんですよね。自分の少年時代を振り返ると、確かにある時期からわざわざ自分から親には話さなくなるなあと気がつく。今のうちに、ちゃんと聞いてあげなきゃ、と。

 父親の背中を見せる…ではないですが、お片付けでもで何でもなるべく一緒にやって見せる、30歳の父親と4歳の息子同士にしかできないコミュニケーションを大切にする。それが、今の僕が息子にしてやれる精一杯のことなのだろうと思います。

 あー、今日のブログ(に限らずですが)、結局何が言いたいのか全然分からないですね。悩んだ勢いで書いてみましたが、ただの結論の出ないモヤっとした文章の羅列になってしまいました。心の中のモヤモヤがもう少し晴れたら、自分で読み返してみて、また反省するか笑い飛ばすかしてやろうと思います。