いつものように『ウルトラマンタイガ』の録画を息子と一緒に見ていたら、彼が一言、こう呟きました。
「このミニチュア凄いなあ…」
そうそう、特にタイガは毎回ミニチュアの作り込みヤバいよな。
……って、え?……今、確かに「ミニチュア」って言ったぞ。あんた、どこで覚えたのそんな言葉。もしかして、ウルトラマンが作り物だって気付いちゃった?そうか気付いちゃったのか……。
いやね、僕も前々から気にはなっていたんです。これだけウルトラマンに夢中な彼の目に、「特撮テレビドラマ」という形態は一体どんな風に映っているんだろうと。
実在しない巨人や怪獣をまるで本当にそこにいるように見せる「特撮」のメカニズムを、4歳半の子供はどれくらいのレベルで理解しているのか。彼がもう少し大きくなったら聞いてみようと思っていたのに、その前に本人の口から「ミニチュア」という言葉が出てきてしまいました。
メイキング映像というタネ明かし
もっと言うと、DVDに特典映像として収録されているメイキングがありますよね。特に特撮パートのメイキングは、最初息子に見せるべきかどうか凄く迷ったことを覚えています。
「迫力満点のあのシーン、実はこういう風に撮ってました」なんて、手品で言うところのタネ明かしみたいなもので、ともすればメイキングを見ることで本編の映像がいかにも作り物っぽく見えてしまったりするデメリットもあると思うんです。僕たち特撮オタクはメイキングが大好物ですけど、ウルトラマンや怪獣の存在を信じている(かもしれない)子供にこれを見せるのは果たしてどうなのかと。
結論から言うと、息子にはメイキング映像も含めて僕の方から「これはダメ」と制限をかけることはしていません。というか、彼の好奇心が強過ぎて出来ないと言った方が正しいでしょうか。YouTubeなんかでそういう映像を自分から拾ってくるんですよね。で、僕の知らないところで勝手に見ている。
「ミニチュア」という言葉も、YouTubeで色々な映像に触れるうちに彼の頭の中へ自然とインプットされたのでしょう。そのうち「中の人」とか言い出したらどうしよう。
「特撮」をどう見ていたか
ここで自分が子供の頃のことを思い返してみると、少なくとも僕は『グリッドマン』にハマっていた頃(5歳)には、それが作り物でヒーローも怪獣もこの世には存在しないことをはっきりと自覚していたと思います。
今と同じように「作品」として特撮を楽しむ目は、その時点で出来上がっていた気がしますね。だから「ウルトラマンになりたい」とか「会いたい」という感情は芽生えてきたことが正直無いんです。むしろ今のほうがあるくらいで(笑)。ヒーローショーで周りのみんなと大声で「がんばれー!」なんて、とてもじゃないけど言えなかったタイプ。だって着ぐるみなんだもん。ほんと、可愛げの無い子供でした。
メイキングの類も、息子のように映像で見る機会は無かったけど、ゴジラシリーズの超全集なんかには割と詳しく撮影の様子が載っていた記憶があって。着ぐるみの製造工程とか「なるほどー」なんて感心しながら見ていましたし、ゴジラの中に人が入っていることも多分それで知ったんじゃないかな。
まるで魔法にかかったように…
そういう意味での「純粋度」とでも言えばいいのでしょうか。それは子供の頃の僕より息子のほうがずっと上だと思います。何と言っても彼の口癖は「ウルトラマンになりたい!」ですから。頑張ればなれるとまだ信じているし、宇宙のどこかにウルトラマンがいることを全く疑っていません。
メイキングもよく見ると、スーツアクターがウルトラマンのスーツを脱いでいるところは絶対に映らない。かつて特撮のメインターゲットだった層が作る側に回って、子供に対してそういう配慮が出来る時代になったわけですね。いいことだと思います。
思えば、子供の頃の可愛げの無かった僕も、ヒーローや怪獣が架空の存在だと理解しつつ、目の前の映像が作り物だとは信じられなかったことが何度もあって。
特に印象に残っているのは、『VSビオランテ』から『VSデストロイア』の平成ゴジラシリーズ。東宝の広いスタジオに作られた巨大なミニチュアセットの数々は、それ自体の迫力も相まってゴジラと敵怪獣のバトルに小細工無しの力強さを演出していました。『VSキングギドラ』の新宿での戦闘シーンなんて、子供の頃の僕にはどこからどう見ても本物の都市に100mのゴジラが現れたようにしか見えなかった。
多分、僕が大人になった今でも「特撮」に魅了されているのは、子供の頃からそういった体験を積み重ねてきているからなのだと思います。いないはずのものが、そこにいる。頭の中では嘘だと理解出来ているのに、この目がその嘘を嘘だと認識してくれない。映像のマジックというやつですね。
「ミニチュア凄いなあ…」息子のこの一言は、果たして特撮卒業への第一歩なのか、はたまた生涯続く“特撮沼”への入り口なのか。軽々しく楽しみとは言えない自分がいます。