
「やっぱり生きていたのか……殴らせろベリアル!」
何気ない日常を真っ当に生きていると、自分の中の「マイ・フェイバリット・ウルトラマン」という概念がなかなか一定しない期間に出くわします。
あなたもありますよね、そういうこと(圧)。
近頃の僕と言えばウルトラマンカードゲーム(以下UCG)でずっとティガのデッキを使っているおかげで「ティガ推し」のパーセンテージが強まっています。
他にも、ブログで散々擦った『シン・ウルトラマン』は未だに繰り返し見ていますし、息子(小5)とリアルタイムでハマりにハマったブレーザーも捨てがたい。
そうやって気持ちがあっちへこっちへとウロウロしているうちに、7月になってまた新しいウルトラマンが始まり選択肢が無限に増えていくさてどうしよう……というサイクルを繰り返しているのが、ここ10年近くの僕の特撮遍歴になります。
しかしながら、マイフェイバリットがぐるぐる巡った末に「俺いつもここに帰ってきてるな」という場所、いわゆる実家のような安心感をもたらしてくれるウルトラマンがいましてね。
「結局やっぱり、ゼロがかっこいいんよなあ」
昨年の9月のツブコンでウルトラマンゼロが主役のショーを息子と一緒に見た帰り、しみじみと2人で語り合いました。そう、結局なんだかんだ、ゼロがかっこいい。
「生身の会話」のドキドキ感
【リレー・リレーションとは】
〈メンバー〉
・平6トライスクワッド(かずひろさん、ぞひ丸さん、虎賀れんとさん)
・昭和残り香世代(木本仮名太さん、結騎了さん、僕)
昔々、ブログには「バトン文化」というものがあったそうな。そう、知り合いのブロガー同士で共通のテーマについて書くあれのこと。……え、何のことか分からない?じゃあトラックバック!これなら知ってるでしょ?えーっと、キリ番は?BBSは?ニフティサーブは?……いやいや、僕は決して呪文を唱えているわけではありませんのであしからず。
オーバー30ズには実に香ばしいであろう「あの頃のインターネット」と、そこに確実に存在していた「思いを通じたつながり」。今思えば絶妙に心地の良かった距離感、もしくはその空気感を、令和の世にあえて再現してみせようと6人のブロガーたちが意気投合し立ち上げたブログバトン企画。それがこの「リレー・リレーション」です。
記念すべき第1回のテーマは「ウルトラマンゼロ」。
プロローグ(木本さん)>>ウルトラ銀河伝説(結騎さん)>>ベリアル銀河帝国(かずひろさん)>>ウルトラマンサーガ&ウルトラゼロファイト(れんとさん)>>とつながって、僕が受け取ったバトンには『ウルトラマンジード』と書いてありました。
僕が「ゼロ推し」になったきっかけは3歳の頃の息子と一緒に見た『ウルトラマンジード』で……という話はもうこのブログで何度もしてきている気がします。というか、はてなブログを始めたのも元々『ジード』の話をするためでした。
父親になってまだ3年と少しの頃。右も左も分からぬまま、人ひとりの人格形成に大きく影響を及ぼす立場になってしまったことで日々戸惑うばかりだった僕に、『ジード』におけるゼロの変身者である伊賀栗レイトというキャラクターは、それはもう刺さりに刺さりました。以前「私の推し」というテーマで記事にも書いた通り、僕を本当の意味で父親にしてくれた「お父さんモデル」が他でもないレイトさんだったのです。
ただそれとは別に、「ウルトラマンらしからぬ」ゼロの強烈なキャラクターにも惹かれました。前置きが長くなりましたが、今日はそちらのお話を中心にしていこうと思います。
『ジード』におけるゼロの名ゼリフ。
パッと思いつくだけでもあれやこれやと思い出すことができますが、第16話「世界の終わりがはじまる日」で宿敵・ベリアルと再会したときに発した「殴らせろ!」。この一言は衝撃的でした。
数あるヒーローの中でもウルトラマンって割と品行方正というか、基本的に乱暴な言葉は使わないし間違ったことも言わないイメージがあるんですけれども(「アストラを殺す!」とかいう例外もありつつ)、ゼロはそういったパブリックイメージに収まらない「はみ出る」感じがずっとあって。特に『ジード』のゼロはいわゆるサブウルトラマン的ポジションだったこともありその自由さ、豪放磊落さにより磨きがかかっていました。
「殴らせろ!」ってこれ、誰かを守りたいとか正義のヒーローの使命に駆られてとかではなくて、ゼロの極めて個人的な感情から出てきているセリフなんですよね。そこがとてもいい。
「昔色々あったよなあベリアル、偶然ついでにとりあえず一発殴らせろや」っていう、田舎のヤンキーの喧嘩みたいなノリじゃないですか。宇宙を股にかけて活躍する正義のヒーローのセリフとはとても思えないんですけど、だからこそなんというか、異形の者たちの「生身の会話」をこっそり聴かせてもらっているようでドキドキさせられるんです。
ゼロの変わらない魅力
で、登場人物のセリフを聴いてそれが「『生身の会話』かどうか」っていう部分を、大人よりもずっと敏感に感じ取るのが子供です。
当時3歳の息子、「殴らせろ!」もそうですし「嫌がらせ完了!」みたいなゼロの感情的になってつい口をついて出てしまったみたいなセリフほどテレビの前でよく真似をしていました。それこそテレビの前で、ゼロのあのキザなポーズをバッチリ再現しながら――。
そんな可愛かった息子がもう小学6年生になろうとしている(生意気さに日々日々磨きがかかっている)今だからこそ言えるんですけどね。

あの頃の僕、全力でゼロになりきる3歳の息子を見ながら「ああ、これはもう彼が大きくなったときに『こん時はほんと楽しかったよな……』ってしみじみ思い出すやつだ」と早くも感傷的になっていました。
自分の息子が、自分のマイ・フェイバリット・ヒーローに憧れを持つ。もしくはテレビの前で一緒になって応援することができる。「今この瞬間が自分の人生の最高潮じゃん、ミラクル!」ってなりますよそりゃ。
じゃああれから8年後の今の僕がどういう気持ちかっていうと、もちろんあの頃はあの頃で楽しかったですけど、ゼロって今も現役バリバリだから僕たち親子に新しい夢や思い出を変わらず与え続けてくれている。だから変に感傷的になることは実はそんなに無くて、ちょっと規模の大きいウルトラマンのショーとかに行くと未だに絶対ゼロいるんで(笑)、それがまた言葉にならんかっこ良さなので息子と一緒に「やっぱゼロだよな」と毎回なる。これから新しいウルトラマンが何人出てこようとも、ゼロの絶対的な魅力は不変だよなって親子で再認識させられるんですね。
そういった経緯もあり、これまで親子2人でウルトラマンを応援してきた歴史(と言っても差支えのない年月が既に流れている)にゼロはずっと寄り添ってくれていたんだなって、最近になってようやく気付けたというところがあります。
「体験」をくれるヒーロー
僕も37歳にもなると好きになるヒーローやキャラクターの定義というものが移り変わってきておりまして、改めてゼロがずっと魅力的であり続ける理由ってなんだろうと考えたときに、「『体験』をくれるヒーローである」というところが大きいのかなと思い至っています。

「体験」というのは、例えば先述した僕が息子とショーを見て「やっぱりゼロだよね」と目を合わせる一コマであるとか、セブンとの親子のストーリーに自分たちを重ね合わせて感情移入することができたりとか、レイトさんの父親ぶりを見て自分もこうあらねばと決意させられる瞬間であるとか、そういう「キャラクターに気持ちが乗っかる事象」を指します。憧れ、共感、尊敬、希望……見る人のどんな感情にもひょいっと乗っかれてしまう器の広さが、ゼロにはあると思うんですね。
だから変身者がコロコロ変わっても、ファンの間で「この人はちょっと違うかも」みたいな話って全然聞かないじゃないですか
ランもタイガもレイトさんも、それぞれ全く異なる出自・立場・性格でありながらゼロは都度、彼らにとって完璧な受け皿になり得ている。そんなヒーローって世界中探してもなかなかいないです。時代に合わせて見る者に「体験」を与えられるヒーローってキャラクターとして単純に強いですし、ヒーローの強さは人気に直結する最も大切な要素の一つですよね。
ゼロも誕生から15周年を迎え……というところで、15年と言ったらよちよち歩きの赤ちゃんがいっちょ前に中学3年生になるくらいの年月ですから(当たり前の計算)、ゼロもいよいよ年数だけで言えば「昔のウルトラマン」と呼ばれるようになってくる、はずです。
でも全然、キャラクターの印象としてそんな雰囲気は微塵もありません。来年にはゼロが主役の新作映画も公開されます。ゼロの暴れっぷり、スクリーンには絶対収まりきらないんだろうなって確信がありますもんね。また僕たちに新しい「体験」をくれるであろうというこの安心感、信頼感。
創作物、もしくは架空のキャラクターという枠をはみ出て、現在進行形で我々の中に「生きている」ゼロの活躍をこれからも楽しみにしたいと思います。
ゼロの新作映画が公開される頃には息子も小6か中1かそこら……いわゆるバリバリの思春期です。そのときもまた同じように、帰り道にお互い目を合わせて「やっぱりゼロがかっこいいんよなあ」と親子で語り合いたいですね。きっと、そんな風になっていると思います。
リレー・リレーション、最後のバトンには「『ウルトラギャラクシーファイト』をよろしく」と書いておきました。ゼロ編のフィナーレを飾るぞひ丸さんの「イータイコト」をお楽しみに。
