僕は子供の頃から、結構「物持ち」がいいほうで。
大人になった今も、財布や鞄は同じものを何年も使い続けています。
「物持ちがいい」と言うとなんだか凄く良いことのように聞こえますが、要するに貧乏性です。
使えるものは本当に使えなくなるまで徹底的に使ってしまいたい。更に言うと、物に対して変に感情移入してしまうところがある。自分でもちょっとおかしいと思うくらいに愛着を感じて、捨てられなくなってしまうことがしばしばあるんですね。
ちょうど僕が小学生に上がった頃。
生まれて初めて買ってもらった、もう乗れなくなったボロボロの自転車を親に捨てられそうになって大泣きしたことがありました。
すったもんだの挙句、フクロウのシールを貼ったチェーンのカバー部分を取り外してもらい、それを “形見” として持っておくことでなんとか収まったという思い出。今でこそ家族の間では笑い話ですが、あの「自転車との別れ」は僕にとっては忘れがたい、ほろ苦い記憶だったりします。
物への異常な愛着。
自分の物へだけならまだいいんですが、それが履き続けてボロボロになった息子の靴にまで及んでしまっている、というのが今日のお話。
新しい靴を買ってあげたい気持ちと、これまで共に息子と日々を歩んできた思い出の靴をそう簡単には捨てられない気持ち。この葛藤、如何ともしがたい。
いつもどこでも
写真の靴は、『ウルトラマンR/B』の放送が始まった頃に息子に買ってあげたものです。
赤のロッソと青のブル。「どっちがいい?」と息子に尋ね、彼が指を差したのが青いほうの靴でした。
足の大きさ的にも、ちょうどベビー用品のかわいい靴からキッズ用のシューズに買い替えてあげようかという時期で。当時最新ヒーローだったブルの靴を履いて外へ出るときの息子の背中からは、言いようもないウキウキ感が伝わってきたものです。
子供の頃の僕はこういうキャラものの靴を買ってもらえなくて、友達が履いているのをただ羨ましく見ているだけでしたから、息子を通して十何年ぶりの夢を叶えた気分でもありました。
以来、保育園へ通うときはもちろん、公園へ遊びに出かけるとき、お散歩へ行くとき、ウルトラマンのイベントに足を運ぶとき、息子が必ず履いていたのがこの青いブルの靴で。
一応、もう一足ベーシックな柄のシューズも用意してあったんですけどね。全然出番なかったですもんね。
物への愛着を自覚する瞬間
かれこれ1年以上に渡って息子に履き倒されているブルの靴は、今も彼の相棒として頑張ってくれています。が、写真を見てもお分かりの通り、つま先のほうが破けたりしていて結構ボロボロ。
時を同じくして幸か不幸か、ピッカピカに輝く新しいタイガのシューズを履いて保育園へ来ている同じクラスの友達を息子が目撃してしまいます。
そしてその場で「あのタイガの靴、○○も欲しいなあ~」と僕に思いっきりおねだりしてくるのでした。確かに僕も「そろそろ買い替えてあげないとなあ」とは思っていたものの、タイガのシューズを買い与えることは同時に、長年(と言っても1年半ですが)連れ添ったブルの靴とのお別れを意味します。
いや、僕も元々そこまで息子の靴に思い入れがあったわけじゃないんですけどね。
彼に新しいシューズをねだられて、いざ今履いている靴を捨てることを考えたときに、初めてブルの靴を履いて大喜びしていた息子の姿を思い出したり、これまで撮った息子の写真を見ても、ほとんどこの青い靴を履いている。
これも年のせいでしょうか、何だか急に寂しさがこみ上げてきてしまって。
「みっともなさ」との戦い
今日はフォレオ大津という滋賀県のショッピングモールで行われた、ウルトラマンオーブの写真撮影会に行ってきました。
撮った写真を見ながら、普段は気にもならなかった息子の青い靴が嫌でも目に飛び込んでくる。「この靴でウルトラマンと写真を撮るのも今日が最後かな……」。
息子には、僕のような「物持ち」という名の貧乏性を受け継がせたくはないと思っていて。
服や財布や鞄なんて、特に大人になってからはやっぱり新しく綺麗なのを持っている人のほうが断然かっこいいです。それに何と言うかこう、いつまでも昔の思い出にしがみつくのってちょっとみっともない。自転車の部品を形見として持っていた子供の頃の自分、我ながらみっともないなあと思いますもんね(笑)。
息子がもう一度、新しいシューズをねだって来たら、その時は僕も潔く応じようと考えているところです。ほんと、それくらいブルの靴はもうボロボロなので。
でも履かなくなったやつ、僕が捨てられるかなあ。ゴミ箱に入れるときは目つぶってますよ多分。