僕が僕であること(仮)

ウルトラマンが大好きな9歳の息子とのウルトラ備忘録です。

沢田研二ドタキャン騒動で考える「推す」ということの意味

 普段ワイドショーなんてほとんど見ないし興味もないのですが、この間の沢田研二がさいたまスーパーアリーナのコンサートをドタキャンした件。これはちょっと面白い話だなと思いました。

 沢田研二がヒット曲を連発していた頃にはまだ生まれてもいなかった僕にとって、この人の凄さは正直いまひとつピンと来ない。だからワイドショーのコメンテーターたちが、このドタキャン騒動に対して一定の理解を示し擁護する様はとても滑稽に映るし、そんなもんどんなに凄い人だろうがコンサートの客入りが悪いからって直前に中止なんてあり得ないでしょと普通に思ってしまいます。

 

他人事とは思えない何か

 僕が面白いと思ったのは、その中止になったコンサートに行くつもりだった(というか、既にさいたまスーパーアリーナに集まっていた)ファンの人たちの反応です。複雑な心境を口にする人がいる一方で、

「ジュリーらしい決断」

「私たちは何があってもジュリーに着いていく」

「健康面の問題かと心配していたので安心した」

「逆にいい思い出になりました」

と特に長年のファンの人たちは今回の騒動におおむね寛容な姿勢だったそうで。

 こういったファンの人たちの声を聞いて、僕は他人事とは思えない何かを感じました。つまりその、盲目的に何かを「推し」ているという点においては、僕もこの人たちの考えに共鳴する部分があるのではということです。

 歌手がコンサートを直前でキャンセルする。普通に考えれば良いことなはずがありません。チケット代はもちろん、交通費、遠方から来ている人の宿泊費、このコンサートのためにわざわざ所得したであろう休日、何より一人ひとりのファンの気持ちはどうしてくれるのか。今回の騒動、良い悪いで言えば沢田研二は絶対的に悪いです。ただ、それを分かった上で。

 それでもジュリーを信じて応援したい、誰に何と言われようとファンでい続けたい。そういう価値観が確かにそこにあるということに、僕は何とも言えない奥ゆかしさを感じるのです。これが「推す」ということなのだな、と。

「推す」ということ

 擁護しているファンの方々の声、恐らく99.9%本心でしょう。無理して強がり言ってるわけじゃないと思います。沢田研二のファンでもない僕に、何故それが分かるのか。僕にも色々な分野に「推し」がいるからです。

ryo-nf3000.hatenablog.com

 ウルトラマンゼロがショーの直前にドタキャン、なんてことがあったらそれは確かにいい思い出かもしれない(笑)。

 思えば、ウルトラマンを制作している円谷プロダクションにも今では考えられないようなお家騒動が続いた時期がありましたね。でも、だからと言って僕はファンを辞めるとかそういう考えにはならなかった。ウルトラマンが好きという気持ちは変わらない。復活を信じて待つ。そんな心境だったと思います。

ryo-nf3000.hatenablog.com

 今年の阪神。めっちゃくちゃ弱かった。最下位になった責任をとって監督も辞任してしまいました。

 「金返せー」そんな声もよく聞こえてきた今年の甲子園。でも、どんなに酷い試合を見せられても何故か「それも阪神らしい」と思えて納得出来てしまう不思議。もう阪神ファンなんてやめる!何度そう思ったことか。なのに気付いたときにはテレビで野球中継を見ている自分がいる。離れたくても離れられなくなってしまったら、その時はもう覚悟を決めるしかないのです(笑)。

 今回の騒動に関して、完全な部外者と言えるテレビのコメンテーターのコメントは滑稽に聞こえるのに対して、同じ内容でもファンの方が言うと共鳴すら覚えてしまう。そこに、今回の沢田研二ドタキャン騒動の本質が見え隠れしているような気がします。

 つまり、ファンがいいって言ってるならそれでいいんじゃない?ということ。物事を単純に良いか悪いかだけで区別することほど、エンターテイメントにとってつまらない話はないということです。

 …それにしても、ブログを始めた頃にはまさか一度でも「沢田研二」という人を題材にするなんて思ってもみなかった(笑)。昔の曲ならちょっとだけ知ってますよ。一番好きなのは「カサブランカ・ダンディ」かなぁ。